教会報「聖鐘」巻頭言(2021年11月)


白髪のクリスマス

 

牧師 司祭 バルナバ 大野 清夫

 

「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」(『箴言』16章31節)と旧約聖書は、賢者となった老人を賛美しています。

 

オーストラリアに生まれアメリカに移住して短編小説を書き続けたシャーリー・ハザートは小説『金星日食』において、このようなことを語ります。

 

「年寄りは賢者か認知症のどちらかにしか見られないわ。その中間なんてあり得ないのよ。」

 

ある方が母親に知恵とは何かと尋ねました。「誰にも分からないのだから、答えられなくても気に病むことはないわ」と言葉を添えたそうです。母親は毅然としてこのように語りました。「知恵の最も素晴らしいところは優しさよ」と。

 

それは物忘れが激しくなり、言語能力、社会的防衛力が低下してしまった母親の、無防備に人の助けを求めてしまう感覚から生じたものかもしれません。

 

しかし知恵は優しさなのです。このことは年齢を重ねて賢者にならなければわからないかもしれません。人生を生きなければ知恵はつかないのです。しかし聖書はイエス・キリストを知恵そのものとして示しています。病の人を癒し、空腹の人々にパンを与えることが神の知恵だと。それが愛であり、その愛によって私たちは幸福になっていくのだと。

 

愛を与えるイエスは、降誕された時は愛を受ける人でした。多くの人々から命を守られた幼児だったのです。愛を与えるイエスは、愛を受けた人でした。

 

愛を受けた人が愛を与える人になる。そのことはイスラム教でも同様です。

 

「もし老いた両親とつき合うのが難しいと思うことがあるなら、主よ、両親が幼い私に示した憐みを、彼らにお与えください、と言いなさい。」とコーランは語ります。

 

人間ははかないものです。愛なしに生きていくことはできません。わずかばかりの人生を生きるには、愛を受ける謙虚さ、愛を与える寛大さを学ばねばなりません。そのことが神の知恵です。神の知恵は、人が他者の愛によって育まれることを教えています。そのことを知るのが賢者です。どちらかと言えば認知症ではなく、賢者としての憐み深い優しさをもって、暗闇の中に主の降誕を迎えたいと思います。

 

人は、初めの10年は死や生を理解しない子ども。次の10年で仕事を学ぶ。次の10年で稼ぎ、財産を築く。残りの10年で世を去る。このようにイエス時代のエジプト文書は記しています。