教会報「聖鐘」巻頭言(2022年1月)


貧しい人々は、幸いである(ルカによる福音書6章17~26節)

 

牧師 司祭 バルナバ 大野 清夫

 

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」と語られる貧しさとは、どのようなものなのでしょうか。

 

「貧しい」と訳された言葉の本来の意味は「うずくまる」というものです。ですから「貧しい人々は幸いである」とは、「うずくまる人々が幸いだ」という意味なのです。この「うずくまる」という言葉に、「物乞い」「極めて貧しい者」という意味があります。ですから「貧しい人々は幸いである」とは、「極めて貧しい者、物乞いをする人々が幸いだ」との意味であると私達は知ることが出来ます。  

 

では「極めて貧しい人、うずくまる人」とは誰でしょう。それは十字架上の主イエスに他なりません。貧しさとは、主イエスの十字架上での絶望のことなのです。「貧しい人々は、幸いである」、とは、真の絶望を知る者は幸いだと語っているのです。幸いとは、絶望をそのままに受けとめた時、与えられるものであって、意地を張らずに、自然に現実を受け止められた時、希望が湧きだして来ることを、聖書は教えているのです。

 

自然の中に生まれ自然の中に死ぬことが一番自然だ、とは日野原医師の言葉です。日野原医師はドイツ・チュービンゲンの森の多い自然の中で一週間生活をした時に、このようなことを思ったそうです。「ここであの大作曲家であるバッハは育った。だから、ああいう自然の声のような、宇宙の声のような宗教音楽が作曲できたのだろう」ドイツは、森と湖が大変に豊かだから、多くの作曲家を生んだ、と語るのです。

 

私達も、窓の外の大きな木に、朝になると小鳥がさえずり、日がさしてくる、そのような自然の中に生かされている時、大きな安らぎを得ることが出来ます。

 

大バッハも、自然の中の、そのような命の、そして魂の音を聞き取って、楽譜にしたに相違ありません。バッハの才能は、凡人が聞き逃してしまう音を聞き取ったところにあります。それゆえに、あの深い森のような響きを産むことが出来たのです。それは都会のあわただしさの中では出来ないことです。都会の「豊かさ」にあっては出来ないのです。

 

深い魂の森の中、絶望とも思える貧しさの中に自らを委ねてことで、私達は神の声を聞くことが出来るのです。主イエスは、自らを十字架に委ね、その絶望、貧しさの中で父なる神の声を聞き取られたのです。そのイエスが、私達に向かって「貧しい人々は、幸いである」と語るのです。