教会報「聖鐘」巻頭言(2022年2月)


大斎の前に

 

牧師 司祭 バルナバ 大野 清夫 

 

アララギ派歌人土屋文明の息子土屋夏実の友人に、押田成人神父という方がおられました。押田神父は、八ヶ岳山麓で農耕生活を営みつつ修道生活を送っておられたのですが、神父のお話では、土屋夏実は学生時代、決して安易な参考書を使わずに勉強された、ということです。国語には国語の参考書があって、それを見ると早いのですが、夏実は絶対にそれを使わないで国語辞典、漢和辞典という分厚い辞書をひきながら勉強をしたそうです。これは父親である土屋文明がされていたことで、夏実は父から学問の姿勢を学び取ったのでした。真理を探求するためには、安易な道は避けなければならない、敢えて遠回りと感じるような道をとるべきことを学び取ったのです。それは忍耐、鍛錬を通して真理に至る道でした。

 

真理を見るためには、目の前だけを見る姿勢、即座に得られる答えに飛びつく態度は避けるべきなのです。

 

一つの問題に答えを得るための第一の作業は、いくつもの可能な答えを探すことです。そして1週間、2週間、1ヶ月、2ヵ月、さらには数年間の間、答えを出さないでいることです。そして全くその問題を考えずに、外に出て、遠い山を見て、呼吸をすることが良い答えを得るために必要です。そのことでじっくりと物事を考える力が与えられるのです。

そしてこれが答だと思ったとしても、教会で祈り、山を見て、街並みを見て、又山を見て、教会へ戻り祈り考えて、それでも変わらなかったら、それが最も妥当な答えだと受け止めるべきなのです。

 

目の前のみかんを見る時、ただ見るのであれば、それは現象を見る、目の前に現れているみかんの姿を見るということに留まります。しかし本当に見るとは、みかんに着目しながらも、みかんを飛び越えてその背後にあるものを見ることです。みかんをつくられた方、その土地、そのみかんが実ってきた年月、それを食べた人達の群れ、それらを思うことで全体が自分の中に入ってきます。 

このような目こそが意識を越えた目です。それは言わば、現象にとらわれない眼差し、自分の立場から裁くことをしない眼差しです。

 

高僧と言われる方の目は、目の前の現象だけを見ることなく、その奥にある眼差しをその目に映していると言われます。わたしたちの目はどこを見ているのでしょうか。大斎を実りあるものとして過ごしましょう。