教会報「聖鐘」巻頭言(2022年5月)


手放すこと

(使徒言行録2章1~11節)

                                          

牧師 司祭 バルナバ 大野 清夫

 

「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と、使徒言行録は聖霊の降臨を記しています。聖霊の降っていなかった弟子たちに聖霊が降ること、それが聖霊降臨の出来事です。そしてその聖霊降臨の日から、聖霊が教会に働き、宣教の時が訪れたのです。

 

暑い時に、心地よい風が吹くと、心の中も爽やかになります。そして、ほほ笑み、元気、やさしさが湧いてきます。

 

しかし、生活の中で心地よい風を感じられず、心を閉ざし、ほほ笑みや元気、やさしさが出てこない時があります。頑張ってほほ笑むことで、もっと疲れてしまうこともあります。

 

弟子たちが家の扉をしっかり閉めている様子は、私たちが心を閉ざしている状態です。人に対してやさしくなれない時があります。イエス様は、そのような固くなってしまった私たちの心の中に入ってこられ、ヨハネ福音書を通して「あなたがたに平和があるように」と語られたのです。聖書において平和という言葉は、争いがない状態を示します。そしてさらには神様が深く私たちの中におられる状態を言うのです。

イエス様は、私たちが限りない愛とゆるしに満たされるよう心の中に入ってくださいます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」という言葉は、私たちが神様の限りない愛を分かち合うようにと言っているのです。

 

福音書で用いられている「赦す」という言葉には、「捨てる」「手放す」という意味があります。赦すことはエゴにまみれた自分を手放すことなのです。

 

その手放す力をくださるのが聖霊です。私たちが努力してこの力を得るというより、イエス様が手放す力、エゴにまみれた自分を手放す力を吹き込んでくださるのです。

 

人が神様から限りない愛を吹き込まれ、心から生かされるようになることが聖霊の力です。そのために、私たちは閉じた部屋の戸を開け、心をひらいて、心を空っぽにして、聖霊を祈り求めることが必要なのです。

 

京都・宇治のカルメル会修道院に奥村一郎神父を、或る方が黙想指導のためにお訪ねした時のことです。

 

神父は竹箒を手にして、背中を小さく丸めて庭の落ち葉を集める作業をしておられたそうです。

 

「おもしろいものですね。火を付けると、どの葉っぱも同じ火になって燃えるんですよ。」「与え尽くして、もはや与えることができなくなったとき、あなたも落ち葉のように炎になることができます」と、奥村神父は教えてくださったそうです。さてどのような意味なのでしょう。