人の命
(ルカによる福音書12章13-21節)
牧師 司祭 バルナバ 大野 清夫
自分のことにやっきになっている金持ちがいます。大きい倉を建てて、自分の穀物、自分の財産を貯えようとします。主イエスはその人に対して、「人の命は財産によってどうすることもできない」と語ります。この言葉は主イエスの幸福論とも言えるものです。
『知恵の書』は富の力について、「金持ちが足を滑らすと友だちが支えるが、身分の低い人が倒れると、友だちですら彼を見捨てる」と、富める人と貧しい人との違いをあからさまに述べています。またシェークスピアは「富に恵まれれば、どんな愚か者も賢者に見える」と語ります。人は富によって人生の表面をきれいに飾り、自分の醜さや愚かさを隠すことが出来ると言うのです。しかし人間の本質は変わりません。神はこの金持ちに語ります。「『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか』。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
わたしたちの富はこの地上でなく天にあります。神の前に豊かになるとはそのことを知ることにほかなりません。
この金持ちは、私の穀物、私の食料にこだわり、自分の富を築いていきます。しかし自分の富をいくら蓄えても虚しいのです。自分の力を過信して豊かさを得ても、精神的には貧しくなっていきます。不思議なことですが、物質的に豊かになっても心が貧しいと実際の生活も貧しくなっていくのです。
科学がすばらしく進歩し、人間の寿命がどんなに延びようとも、人は死を避ける力を持ちません。死を迎える時、物質的な財産は何も意味をなしません。「わたしたちは、何一つ持たないでこの世に来た」のであり、「何一つ持たないでこの世を去って行く」のです。生まれた時は裸でも、その裸をおおい、守り、かばってくれる人がいました。しかし死の時、誰もが一人で神の前に立つのです。富や名声は何の力にもなりません。
人生の旅路の果てに、父なる神が待っておられるという信仰。わたしたちの人生とは、神と出会うための準備の時だとの自覚。その自覚を持って誠実に謙虚に生きていく人が賢者なのではないでしょうか。
『信仰と甘え』という本を出した土居健郎は、『聖書と甘え』という本の中で、「真の幸福は、思いがけない贈物に『勿体ない』と言える人たちだけが味わうことが出来る」と語っています。
当然だと思える贈物は、私たちに幸福をもたらしません。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」のです。
心の底から、「もったいない」、「ありがたい」という言葉が口をついて出るような生活が、神に感謝をささげる生活ではないでしょうか。