地上の火
(ルカによる福音書12章49~56節)
牧師 司祭 バルナバ 大野 清夫
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
このように主イエスは語られます。この火とは、地上にあるものを燃やし尽くす火ではありません。この火とは愛の炎のことです。愛の火は、アダムとエヴァが罪を犯してから、この世から消え去ったとされます。エゴイズムが愛の火を消し去ったのです。
自己中心主義はナチズムを生みました。ドイツ人が優秀でありユダヤ人は悪だとする単純な考えがドイツ中を支配し、差別や殺傷を生み出しました。
アウシュビッツの悲劇、広島・長崎の悲劇の背景には、自分達は優秀であるという単純なエゴイズムが横たわっています。
万世一系の天皇をいただく大和民族は優秀であるとの信念は、真珠湾攻撃を生み、世界の憲兵を自称するアメリカは平和のためとして、原子爆弾を投下したのです。両者共に、神を見失った人々の姿がそこに見られます。
キリスト教国であるアメリカが、偶然か否か8月6日に広島に原子爆弾を投下したことは、その後に深刻な問題となっていきます。8月6日とは、主イエス変容の日であったからです。主イエスが山上で白く輝き変容したその日に、広島は一瞬の光と共に真っ黒となり、おびただしい死者を出し、出し続けています。
わたしたちはよりいっそう、エゴイズムを消し去る愛の炎を求めなければなりません。それは意外に単純なことかもしれません。ケルトの祈りの中にこのようなものがあります。
わたしの家はどこにあるのだろう
わたしの生活しているところが家なのだろうか
わたしが夏に座る庭
わたしがさすらう田園
或いはわたしが礼拝する教会
わたしが家と呼ぶ場所 そこはわたしの心が安らぐところ
祈りをささげて心が神へと向く時 わたしの心は最も安らぐ
わたしが祈る場所 それが家なのだ
わたしたちもまた祈る時、エゴイズムが消え去り真実の愛に気づきます。
8月、京都は五山送り火の日を迎えます。送り火もまた先祖とわたしたちを結ぶ愛の炎かもしれません。命とは、愛とは、わたしとは誰なのか、種々に考え祈りつつ、ゆく夏を惜しみたいと思います。